青縄会 青山夏樹
コラム
update140903
BEYOND PHOTOBOOK 緊縛 NATSUKISSへ

■01「縄の痛みについて考える」

体を縄で縛られる事は、それ自体が快感を生む事ではありません。
ですから太古から犯罪者の自由を奪う拘束に「縛る」という罰が加えられて来ました。

SMプレイの中では、その「縛る」という行為を用いて精神を解放するという効果を楽しんだりします。それはMという変わった性癖を持つ人たちがマゾだから「苦しさ、痛さ=快感」となる訳ではありません。(これについてはまた詳しく書くことにして今回は割愛します)
Mも肉体的には普通の人間で異常な人ではありませんから、痛いのが好きだろうと
縛る際にもギュウギュウに締め上げたり、小さく皮膚や肉を挟んだ痛みを気づいてあげずに苦しんでいる様子をサディスティックな気持ちで楽しむ・・・というのは、Sとして恥ずかしい事だと思います。

まず縛り手であるSは受け手であるMが「痛い」「痺れてる」と言ってくれる状況を大切にしなくてはいけません。
「我儘なMだ」などと叱られてしまっては受け手側のMも自分の状況を素直に伝える事が出来なくなり無理に我慢をする癖が出来てしまいます。
これでは怪我や麻痺などの後遺症を残してしまうことに繋がりかねません。
勿論SMですから、苦しいのは当たり前ではあります。受け手もすぐに「あそこが痛い」「ここが痛い」と言うようになってはプレイが続けられません。
ですから縛り手は受け手が、自分が狙った責めによる苦しさを受けているか・SMではない生理的な痛みを我慢していないか、常に注意して見極めるようにしなくてはいけません。
これが出来ていれば、痛みの状況を聞いて「それは縛っているとこの段階では起こることだ」「じゃあ一回解こう」と的確に対処して上げることが出来ます。
こういう繰り返しが受け手からの信頼に繋がり、心の底から身を委ねて自分を解放してくれる姿を見せてもらえるようになります。
他人の体を預かる上でとても大切な事です。

縛るという行為が、縛るだけの楽しみで終わらず深淵なSMの精神世界に2人が没頭しSMの快楽を共有する為の手段の1つであって欲しいと思います。
縛りたいから縛る、縛られる事でスイッチが入る。それは十分素敵な事ですがSMにはその先の、もっと素晴らしい痺れるような官能の世界が待っています。
不必要な我慢がMの日常を捨てさせず、Mに没頭できない状況を作ってしまいます。

では責め縄だったらいいか?という事を考えてみましょう。

「責め縄」は縄で受け手を責め込んで行くものですが、下手の言い訳に使うべき言葉ではありません。
縛りの技術が一定のレベル以上に到達した人が狙いを定めて、そこを責めこむ為に縄を掛けていく縛りが責め縄です。
縛っている過程から痛いのは責め縄ではありません。
受け手側も「痛いのは責め縄だ」と言われたとしても鵜呑みにせず、自分を守る事を考えましょう。

縄を受ける側も無意識にでも自己防衛を考えず、無理をし頑張って縛り手の望みを受け止めてあげようとせず、受け手がただただ責め手の責めに必死でついて行き責め手の顔や心にだけ集中できる状況に導いてくれる縛り手だけに体を預けるようにして欲しいと思います。(それを見分ける知識についても追々書いていきます)

Sは自分の欲望を押し付けるのではなく、少し先から見守り手を差し伸べMの心に出来た分厚い壁から本当の自分を引きずり出してくれる存在であるべきです。一瞬でも嘘の無い子供のような本来の自分を引きずり出せればSにとっても最高の悦びになります。
SとM。責め手と受け手がその役割分担の中で心を交わし日常で生きるために作り上げてきた自分の姿から心を解放する時間を共有することを目指して行うのが私の考えるSMです。

青縄会ではその考えに根ざして、受け手が安心して体を委ねる事が出来る環境を作り素敵な関係を楽しんでいけるSMが広まることを心から願って止みません。
写真を撮る為、パフォーマンスをする為に縛るのではなくSMを楽しむ為にある緊縛であって欲しいのです。

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